#9

 

月明かりに照らされた裕之の頬に、涙の跡があった。

シャワーでも浴びたのか髪の毛が濡れて、

強く擦ったらしい首筋の辺りが、赤くなっている。

その様子から見て、裕之はショックで泣き疲れてその挙句、

眠りに落ちてしまったようだった。

 

(そりゃ、すごいショックだっただろうな。いきなり男に襲われたんだから・・・。

それもとんでもない誤解をされて・・・かわいそうに・・・・・・)

 

何かから身を守るかのように、小さく丸まっている裕之は

普段よりずっと幼く見える。

八神は手にした毛布を、裕之の肩に掛け直した。

 

(それもこれも、全部僕が悪いんだ。何も言わなかったから・・・。

裕之をつらい目に合わせてしまった。

・・・・・ほんの少しでも、江里佳のことを、言っておくべきだったかもしれない)

 

そんな事を考えながら、八神は形の良い長い指で、裕之の頬にそっと触れた。

月明かりのせいで裕之の頬は、透き通るように青白い。

そこにまつ毛が柔らかく、灰色の影を落としていた。

 

(こうして見ると、本当に綺麗な顔をしているんだな)

 

八神はしみじみ、そう思った。

だが、裕之本人は全くその事に気づいていない。

いや、本人どころか、周囲の人々もあまりその事に気づいていないようだった。

前に 『オレ、一度ももてたことないんだ!』 とあっけらかんと言っていた事を

八神は思い出した。

 

(まだまだ子供なんだな・・・きっと・・・心も、体も・・・・・。

まぁ、それをいち早く見抜いた田島は・・・さすがというのか・・・なんというのか

・・・・・・いや。やはりさすがというべきだな)

 

そう。田島の言っていた通り。見れば見るほど・・・。

 

「似ている・・・・・・」

 

そう呟かずにいられなかった。

確かに八神も、なんとなく似ているかな、位は思っていた。

しかし、田島が必死になって訴えるほど、江里佳に似ているとは

思ってもみなかったのだ。

 

(こんなに似ているなんて・・・どうして気づかなかったんだろう。

多分、七緒子も気づいていただろうに・・・・・いや・・・わかってる・・・・・・

気づかなかったんじゃない。できればずっと、気づきたくなかったんだ・・・!)

 

やりきれなくなって、八神はアトリエの方へ目を移した。

月明かりを受けて、窓枠が大きな十字架を床に描いている。

 

──そこに江里佳が立っていた。

 

月明かりを浴びて、ぼんやりと淡く儚く揺らめきながら、立っていた。

 

「江里佳・・・・・・」

 

これは幻だと、わかってはいた。

だが、どうしても話しかけずには、いられなかった。

 

「江里佳。この子も・・・君みたいになってしまうのだろうか・・・」

 

江里佳はガラス玉のような目で、八神を見つめている。

形のいい唇が、夢の中のようにゆっくりと動いた。

 

『コロシテ・・・ワタシヲコロシテ。

コロシテ・・・・アイシテイルナラ、コロシテ・・・・・・』

 

「・・・・・どうしたらいいんだ?どうしたら同じ事を繰り返さずにすむ!?

裕之が君のようにならないために、僕はいったいどうしたら・・・・・・」

 

『アイシテルワ、アイシテル、アイシテル・・・・・シュウイチ』

 

その言葉と共に、江里佳の幻は、掻き消すように消えた。

 

「・・・江里佳!」              

「う〜ん・・・・・にゃ・・・ふや」

 

裕之が、何か寝言めいた声を発した。

今の八神の声で、少し眠りが浅くなったらしい。

だるそうに寝返りを打つ。

そのまま目覚めるのかと思えたが、結局、また深い眠りに落ちていった。

まるで子供のように無邪気で無防備な寝顔・・・・・・。 

八神はそんな裕之から、目が離せなくなっていた。

思わず手を伸ばすと、裕之の髪に触れた。

まだ少し湿り気が残っているのか、八神の指に髪が纏わりついてくる。

絡みつく髪の感触を指に感じながら、前髪をゆっくり掻き揚げると、

額の右の方が赤く腫れていることに気が付いた。

これが、田島の言っていた傷なのだろう。

見た目には、さほど酷い傷ではなさそうだった。

 

(そういえば、あいつ、おまえは大丈夫か?って言ってたな・・・・・

余裕のある態度をとってしまったけど・・・・・)

 

暖かく見守ろう。と、自分は言った。

でも、本当に見守るだけで、済むのだろうか・・・・・?

八神は吸い寄せられるように、まだ涙のあとが残る裕之の頬に、

そっと、唇を這わせた。

そのままスーッと横に滑らせると、静かに裕之の唇に触れた。

甘い柔らかさが伝わってくる。

突然、このままめちゃくちゃにしてやりたい衝動が、湧き上がってきた。

 

(・・・いけない・・・・・・!)

 

八神は理性が飛びそうになるのを、必死になって抑えていたが、

軽く触れるだけの口づけが、今は止められなくなっていた。

 

(だめ・・・だ!裕之が目覚めてしまう!)

 

落ち着け!とにかく落ち着け!落ち着くんだ・・・・!!

繰り返し繰り返し、そう自分に言い聞かせているうちに、

ようやく、少しずつ冷静さが戻ってきた。

ベリベリと音を立てるようにして、

なんとか裕之から自分を引き剥がすことに成功すると、

”ふうー” と、八神の口から大きなため息が漏れた。

 

(・・・・・危ない、危ない。これじゃ、田島と同じじゃないか)

 

八神は額に手を当てると、複雑な表情でベッドから離れた。

月光がアトリエの床に描き出す十字架が、

先程よりもさらに色濃く見える。

八神は混乱した心のまま、デッサン用の木炭を手にした。

 

 

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